最近地方に行くことが多い。図書館やら、何やらの仕事でそれらの地を訪れるのだが、よく自治体の人に新しくつくったというキャラクターを見せられる。帰りがけに。彼らは満面の笑みで「こんなのつくっちゃったんですよー。どうですか?」と、流行りの「ゆるキャラ」を自嘲気味に教えてくれるのだが、残念ながら可愛くない。そう、「ゆるキャラ」は緩くつくってはならない。

『くまモンの秘密』(1)でも明らかなように、「ゆるキャラ」制作には精度の高いデザインと、プロデュースという名の差し出し方の妙が重要になってくる。もっというなら、現場の情熱、トップの理解も欠かせないファクター。そのあたりは「熊本県庁チームくまモン」の本を読んでいただくとよくわかる。ともあれ、驚くべきことに「くまモン」関連商品の売り上げは293億に達したという現実が目の前にはある。「ゆるキャラ」全盛の世の中だ。

そもそも、「ゆるキャラ」という言葉を最初に定義した本はみうらじゅんの『ゆるキャラ大図鑑』(2)だった。2004年のことだ。雑誌『SPA』で連載されていた全国のご当地キャラクターを集めたイシューをまとめた一冊だったが、その編集方針は基本的に「とほほ」だったはずである。

可愛く誇らしく、みんながキャーキャーいう対象ではなく、「あーあ」という後ろめたい感情。「郷土愛に溢れるが故に、いろんなものを盛り込みすぎて、説明されないと何がなんだか分からなくなってしまった」キャラクターたち。しかも、それが「着ぐるみになったときの不安定感が何とも愛らしく」、みうらは見ていると心癒やされたらしい。

ところがどうだろう、当初みうらが心癒やされていた、ちぐはぐな不均衡さという意味での「ゆるさ」は、一般的な意味での「癒やし」へと取って代わられた。『ゆるキャラ論』(3)に収録されている彼へのインタビューでも、「最近の『ゆるキャラ』はあまり知りません」と答えている。ましてや、みうらの初期衝動にあった「八百万の神というキャラクターをつくりあげた日本が古来から持つセンス」の延長線上に、現在の「ゆるキャラ」たちを捉える人はもうどこにもいない。

大きな広告代理店や、潤沢な予算を確保した仕掛けによって、すべてのキャラクターが(「ゆるキャラ」であってもなくても)制御された制作物の域を出ることがなくなった。みうらが愛したいびつな不完全さや、ばかばかしいことを真剣にやる狂気にも似た熱がにじみ出るキャラクターはどんどん少なくなってきている。

そんな中、異彩を放つ人気の1匹がいるという。全国百貨店協会が主催する「ご当地キャラ総選挙2013」で優勝した千葉県船橋市の非公認キャラクター「ふなっしー」だ。非公認ということは、つまり地方自治体がつくったわけではなく、船橋界隈から自発的に出没した「ゆるキャラ」というのだろうか。船橋の特産である梨の妖精であるという「ふなっしー」。黄色い顔に水色の服を着た、ずんぐりむっくりのキャラクターなのだが、彼は色々な意味でこれまでの「ゆるキャラ」とは違った歩みをみせている。

緩くない「ゆるキャラ」

初見で僕がびっくりしたのは、その動きだ。とにかく俊敏すぎる。愛くるしいポーズや踊りとは無縁で、烈しくヘッドバンギングを繰り返し、驚くべき跳躍力でジャンプをする。多くの人はそれを気味悪がるが、それは少しずつ慣れてくるハイテンション。危害は加えられなさそうだとわかると、徐々にそれが可愛らしく見えてくるらしい。

もうひとつ「ふなっしー」の特徴として、しゃべるキャラクターだという点が挙げられる。『キティの涙』(4)でキティちゃんのデザイナー山口裕子がキティの口を描かないことによって、そのキャラクターが雄弁になったと語るのとは対照的に、「ふなっしー」は一人称で話すことによって、大きな魅力を獲得している。

兵庫県尼崎市非公認の「ちっちゃいおっさん」など、近年はいくらか話す「ゆるキャラ」が登場してきているが、すごい俊速で踊りながら、「ヒャッハー」と奇声を発する「ふなっしー」の特徴は、素で話すことだ。踊り終え、へたりこむと「あー、右腕が痙攣しそうなっしー」とぼやき笑いを誘う(語尾はすべて「~なっしー」)。彼が中途半端に船橋を紹介するDVD『ふなのみくす』(5)の「質問コーナー」では、最初に買ったCDが、ディープパープル『マシン・ヘッド』(7)だと告白し、尊敬する人は「山陰の麒麟児」の異名を持つ戦国武将の山中鹿介(山中幸盛)だと、のたまう。

さらに驚くことに、船橋散歩で疲れたふなっしーがジュースを飲むシーンが映像で収録されているのだが、背中のジッパーらしき部分から冷たい飲み物を注入(?)し、ごくごくと飲み干すところを敢えて映しているところも新鮮だ。いままでの着ぐるみタブーを完全に逸脱。そう、「ふなっしー」の場合は、中に人が入っていることをも想像させながら、きちんとキャラクターとして愛されているところが、今までなかった存在だといえる。

かつて、それは許されざることだった。ウルトラマンの背中のジッパーは見えないものとして扱われたし、ディズニーランドのキャラクターから洩れ出す吐息も世界に存在してはいけないものだった。けれど、ふなっしーは違う。サッカー大会で足元が破れ、足指が見えても誰の夢も壊さない。人々は最初から、「ふなっしー」というペルソナを被った誰かの一挙手一投足を楽しんでいる。

どこかから借りて来たような宣伝文句を連呼するご当地キャラクターの言葉より、一人称全開で無責任に船橋を語る「ふなっしー」にシンパシーを感じるのは、政治や自治体の言葉が地域住人に通じなくなってきている話題と交錯する。ただ、素顔を晒したお笑い芸人が、このテンション、この動き、このしゃべりでも、ここまで受けることはなかっただろう(好き嫌いは別にして、江頭2:50を超えることはない)。やはり、「ゆるキャラ」であることが重要だったのだ。

「ふなっしー」の仮面を被った1人の誰かによって、「ゆるキャラ」の染みだし領域は確実に広がった。顔を見せて話せないことを、その着ぐるみの中なら語れるという、新しい自己の外的側面を生み出す装置にすら、今や「ゆるキャラ」はなっているのである。

ここまで来ると、芸の領域だから、あとは本人の技術とパフォーマンス次第なのだろう。誰も、5年後に彼がいるのかはわからない。けれど、キャラクターをまとったコミュニケーションがより活発になって、有象無象の緩くない「ゆるキャラ」がもっともっと誕生してくるのは、間違いなさそうだ。

幅 允孝

『SANKEI EXPRESS』2013.10.16 に寄稿
http://www.sankeibiz.jp/express/news/131016/exg1310162001007-n1.htm