志賀直哉の『城の崎にて』(1)を読んだことのある人が、今ではどのくらいいるのだろう? 1917年に書かれたこの作品。ある温泉街で主人公が目にした蜂、ネズミ、イモリの死が淡く描かれる(文庫版でいうなら)わずか11ページの短編だ。志賀は電車にひかれたけがを癒やすために城崎温泉を訪れたのだが、そこで実際に体験したことが、この物語には描かれているという。

僕が初めてその小説を読んだのは中学2年のとき。正直に申し上げて、何がよいものやら全くわからずそのまま通りすぎてしまった。小さな生命の死にとどまるよりは、青臭い毎日をしゃかりきに過ごすことが大切な時期だったということだろう。

ところが僕は、最近ひょんなことから『城の崎にて』をもういちど手に取りひらくことになる。志賀直哉や当時の物書きたちが滞在したという老舗旅館、三木屋改修の際に新しくなるラウンジ空間にライブラリー(3)をつくることになったからだ。

本棚は前向きなもの

三木屋のある城崎という町は兵庫県の豊岡市にある。(どこに位置するのか分かりますか?)日本海まで目と鼻の先のエリアだが、東京から向かうならば、伊丹空港経由で但馬空港まで。京都から特急電車に2時間半程ゆられて行くという手もある。

城崎温泉駅に降り立つと、どこからか温泉の匂いがふわっと鼻孔を抜ける。そして改札を通り商店街に歩を進めると、浴衣姿の湯治客がならす下駄の音がからんころんと響いてくる。初めて城崎を訪れる者は、まずこの音にやられる。

近年、旅館やホテルはチェックインしたお客さんをなるべく囲い込み、外に出ずとも楽しめるような工夫とサービスを懲らすのが戦略のようだ。けれども、城崎の温泉街は正反対。お客さんがなるべく外に出て、7つもある外湯巡りをしてもらえるように静かに背中を押す。町の人は「共存共栄」といっていたが、この町全体がひとつの宿として客人を迎え入れるような感覚である。

さて、例の三木屋に荷物を置いてほどほどに、外湯をまわるための浴衣選びからあなたの城崎滞在は始まる。がやがやした歓楽街がないゆえ若い女性客も多い城崎の町。浴衣姿の彼女らが下駄をならしながらそぞろ歩きする姿には、じつに優美な風情があるのだなぁ。(おっと、鼻の下をのばし過ぎてはいけない。)まちの真ん中を静かに流れる大谿川(おおたにがわ)のほとりには何本もの柳が立ち並ぶ。湯あがりの火照ったからだを冷やす風が吹くと、柳の葉も静かに揺れる。

だんだんゆったりとした気分になってきたところで、二十何年かぶりの『城の崎にて』に話を戻そう。当時は淡過ぎてわからなかったあの物語。実は、もういちど読み返してみたら、感じ入る部分が実に多かったのだ。これだから本の読み重ねは面白い。あの短編で描かれた小さな生き物の3つの死。しかもそのうちのひとつは、主人公が偶然にも奪ってしまった命でもある。そんな生死と、電車事故にあったものの生きている自分の不思議を志賀は城崎の町で感じていたのかもしれない。生きることと死ぬことが、表裏でも二項対立でもなく、静かに一緒くたに混ざりあう感触。もし世の中に森羅万象を語る術があるならば、16ページの中に凝縮した濃厚な命のスープのような小説は、その一端をたしかに担っているように思えた。

そんな志賀直哉が『城の崎にて』を書いた三木屋のライブラリーだが、あえて志賀直哉にとらわれ過ぎないように僕らは気をつけることにした。先人の来歴は尊敬しつつも、本棚というものは過去懐古というより、前向きなものでなければならないからだ。名付けるなら、本を読みたくなる本棚。

堀江俊幸の『本の音』(4)は、本から洩れ伝わる小さな旋律を、静かにすくいあげるような書評集。世界中の豆本を集めた『Miniature Book:4,000 Years of Tiny Treasures』も傍らにはある。そのお隣には、豆本つながり。手塚治虫の著者200冊を縮小したコレクター垂涎ものの『ミニコミ手塚治虫漫画全集』(5)も置いてみた。本を知るための本や、本の制作現場に肉薄した本、装丁についての本、本のある空間の写真集や、図書館を舞台にした漫画やミステリーなど、本から広がる世界のいかに豊かなことか。

今を生きて想うこと

極めつきでユニークなのは、アメリカの小説家ジョナサン・サフラン・フォアのつくった『Tree of codes』(6)という本だ。『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』(7)(近藤隆文訳)が世界的ベストセラーになった彼だが、実はとてもユニークな本づくりをする者としても知られている。この一冊の場合は、ページをめくると何やらテキスト部分が虫に食われたように穴があいているではないか。

この穴空き本は、ポーランドの作家ブルーノ・シュルツの『The Street of Crocodiles and Other Stories』という作品の言葉を抜き出して、再構成した切り抜き小説。母方のルーツであるポーランドの書き手に対し尊敬の念を込めたオマージュとして、こんな方法もあるのかと膝を打つ、見事な本歌取りである。

三木屋に逗留した文豪はたくさんいたが、フォアのように軽やかに先人を超えてゆきたいものだ。ただただ過去の歴史を観光化するのではなく、新しいものを生み出すためのライブラリー。

ゆったりとソファに腰掛けながら、300年も続く三木屋旅館の庭を眺める。ずっと前にそこに居た人が、何を見て、何を感じたのかに思いを馳せる。志賀は生死の境界と対峙したが、大切なのは今を生きる僕らがその場で何を想うか。本のある空間は、きっとあなたをどこかに誘うはずだ。

11月の6日には、いよいよ松葉蟹も解禁され、温泉街の活気も気温と反比例してあがってきた。いつもの日常とは全く別の時間が流れる城崎という温泉街で、あなたも緩やかな思索にふける湯治なんて、いかがですか?

幅 允孝

(1)生きることと死ぬこと。その淡い境目が簡潔で無駄のない文章で浮かび上がる。今読み返すと新しい発見があるかも。新潮社、546円。
(2)『注釈・城の崎にて』。NPO法人「本と温泉」が手がける新「城の崎にて」。城崎温泉観光協会などで販売。お土産にも。1000円。
(3)創業300年を超える三木屋がこのたびリニューアル。ライブラリーでは約350冊の本が来訪者を迎えます。
(4)フランス文学者である堀江敏幸が、小説、エッセイなど自身の愛する84冊の本について語った書評集。中央公論新社、700円。
(5)手塚治虫の漫画、200巻を豆本で再現。今では入手困難な作品も入った贅沢な内容となっています。セガトイズ、7万3500円。
(6)切り抜かれた小説は詩のような文章に。物理的な余白が物語の喪失感を薫らせる。Visual Editions、4148円。
(7)検閲の跡を残したり、言葉が黒く塗りつぶされていたり、1行しかないページも。独特の構成が楽しめる一冊です。NHK出版、2415円。

『SANKEI EXPRESS』2013.11.18 に寄稿
http://www.sankeibiz.jp/express/news/131118/exg1311181701005-n1.htm