『自遊人』(1)という雑誌が好きでよく読んでいる。食べ好き、旅好き、温泉好きの僕にとっては、つぼにはまる特集が多い。そして、雑誌の作り手の顔が見える姿勢にも安心と共感を覚える。これだけ多くの情報が日々流れるなか、主語を全開にした確かな情報にだけ、時間を割く自分でいたい。

編集部を新潟へ

その『自遊人』の顔である編集長の岩佐十良(とおる)さんが、またユニークな方なのだ。けっこう思い切りのよい人なのか、2004年には東京・日本橋にあった編集部を新潟県・南魚沼に引っ越し。米づくりを学ぶために関わるようになった土地に生活の軸を移し、雑誌編集だけでなく、その地でつくられた作物を企画、加工し、販売するシステムをつくったりもしている。「メディアは発信する情報に最後まで責任を持つべき」という理念を地で行く、カラダ中心の思想家が彼なのかもしれない。エリック・ホッファーはサンフランシスコの湾港で沖仲仕をしながら哲学を研ぎ澄まし、山尾三省は屋久島で百姓をしながら詩を書いたのだが、岩佐さんは南魚沼で米を作りながら、メディアの在り方を考え続けるというわけだ(2)。

一方で、彼の著書である『一度は泊まりたい有名宿 覆面訪問記』(3)は、僕が次の旅先を夢想するとき、じつに愉しく読めるプラクティカルな1冊だ。

「あさば」や「俵屋旅館」、「二期倶楽部」など、ある美意識が徹底的に貫かれた宿の紹介もあれば、一泊1万円台ながら不思議と気持ちよい「鶴の湯温泉」、「三水館」、「向瀧」などの小さな宿も並列に紹介。そして、この宿のレビューがじつに率直でうなずく部分が多いのだ。食事で出されるひと皿ひと皿の料理や温泉の質、料金明細書の細かい部分にまでしっかり言及。これ以上主語の立った本音の宿評はなかなかないだろう。彼の偏りと自身の偏りがうまく合えば、とても心強い1冊になるはずだ。

地場の鏡であれ

ところで、その訪問記や『自遊人』の宿屋紹介を読んでいても思うのだが、近ごろ心地よいと感じる宿もずいぶん変わってきた。僕自身も国内外への出張が多い仕事なので、知らない土地に行くのなら泊まる場所にも予算の範囲内でこだわりたいとは思っている。たまには自腹でいいから、憧れの宿にも行ってみたい。で、かなりのお宿経験値をため込んできた結果、最近僕は気づいてしまったのだ。なんとも乱暴でわきのしまっていない宿が多いことに。

蟹頼み、牛頼みを筆頭に、調理の質より、素材の有名性に頼った宿にがっかり。部屋のテラスに露天風呂をつくっておけばモダンだと信じ、平気で料金を上乗せしている宿にしょんぼり。バトラーサービスは人員の配置問題だと思い込み、オーダーをかなえることより駆けつけることに力点を置いてしまっているホテルにもがっくり。ついでにいうなら、テレビの裏や部屋の四隅が汚い宿は逃げ出したくなります。

うるさい客といわれても仕方ないけれど、宿の主になめられたまま高い料金を素直に払い続けるゲストにはなりたくない。勘違いのセンスに払うお金も惜しい。宿という場所は家から離れた場所で風雨をしのぎ眠るだけでなく、それぞれの地場の鏡であってほしい。そして、自分にとっての安らかな非日常であってほしいのだ。

自然と心地よく

そして話は『自遊人』に戻ります。じつは編集長の岩佐さん、このほど旅館経営をはじめたというではないか。本当に思い切りのよい人である。宿の名は「里山十帖」。新潟・大沢山温泉の廃業した旅館を譲り受け、2年弱の時間をかけてリノベーションを行ったそうだ。

東京駅から68分で越後湯沢駅に到着。そこから車で30分程の山上に「里山十帖」はあった。雪国の降雪の厳しさを伝える母屋の大きな柱は築150年という歴史と降雪、両方の重みを感じさせるものだった。

だが、いざ滞在してみると、それとはまったく別の価値がある宿だと僕は気づく。宿の来歴や建築的蘊蓄(うんちく)とは別の次元で、何だか自然と心地よいのである。そう、知ることより、感じることを大切にしている宿だと僕には思えたのだ。

建物の古さ、断熱の苦労、景色のためにジャッキアップして20メートルも移動させた露天風呂のつくり方は『温泉批評』(4)の記事に詳細がある。資金繰りについても細かく伝えるその奮闘記も読み応えは抜群。汗と緊張感なくして、いいものが出来上がるはずもない。けれど、実際の「里山十帖」に流れる空気と時間ときたら...、その緩やかなること。ゆっくり歩き、いろいろなものに躓き、周囲をよく眺め留まっているうちに、だんだん五感のポテンシャルが呼び覚まされる。

自慢の饗応料理も感じるがまま。地産地消とか、有機JAS認証などという概念や規格の以前に「うまい!」という感動がやってくる。春の野菜の力強さが押し寄せてくるのだ。天然のせりはこんなにも爽やかで甘苦い野菜だったのか。葉たまねぎとは、なんと柔らかい食感なのだ。僕は心の赴くまま野菜づくしの料理ととびきりの日本酒(「鶴齢」と「雪男」)を自身に染み込ませたのだった。

部屋が特別に広いわけでもないし、豪華アメニティが準備されているわけでもない。古い建物だから防音にも限界があるし、スタッフの数も多くない。

けれど、こんなにも正直で、地に足がつき、わきがしまっている宿は見たことがなかった。宿の全てがヒューマンスケールで営まれ、宿主の領分と矜持を映し出す。2010年代の上質とは、まさにこのような場所なのだろう。そして、そこに岩佐編集長のロマンティシズムが、よいスパイスとして散りばめられているから、滞在後にだってぴりっと気持ちよく居られるのだ。

幅 允孝

■里山十帖 最寄りの大沢駅からは送迎も。自遊人のHPからの予約が、ベストレートです。新潟県南魚沼市大沢1209の6。1泊2食、1万9800円から。
(1)地に足つけながら本物のみを丁寧に探し出そうとする冒険の雑誌とも言える。食も旅も身体も生活の基盤だと教えてくれる。自遊人、802円。
(2)岩佐さんの6年間の米作り体験をまとめた本書。収支や試算といった裏側も真正面から開示していく。講談社、1728円。
(3)泊まった宿で感じたそのままを、独特の偏った視点で掘り下げていく。旅行記としても十分に楽しめる1冊です。角川マガジンズ、1620円。
(4)去年出版された『温泉批評』に、里山十帖開業までの道のりが掲載されている。「本物」にこだわる正直者の背中を見よ!双葉社、905円。

『SANKEI EXPRESS』2014.6.17 に寄稿
http://www.sankeibiz.jp/express/news/140617/exg1406171515005-n1.htm