19日に行われたサッカー・イングランド・プレミアリーグ第6節。ロンドンの両雄、チェルシーとアーセナルの試合は、英国時刻の12時45分にキックオフした。前年王者ながら、なかなか調子の上がらないホームのチェルシーは絶対に負けられないし、今年こそ覇権奪回を目指すアーセナルにとっても、宿敵をたたくには絶好の機会。両チームの思惑も絡みながら、試合はスピーディーかつ白熱した好勝負となった。

後味悪い「ずる賢さ」

ところが、前半終了間際に事件は起こる。アーセナルのCBガブリエル・パウリスタが、チェルシーFWジエゴ・コスタへの暴力行為で退場処分となったのだ。ことの経緯は、こういうわけだ。コスタとマッチアップするもう一人のアーセナルのCBローラン・コシールニーは序盤から何度も相手FWからの挑発を受けていた。後から写真を見ると、コスタは確かにコシールニーの顔をたたいたり、首根っこをつかんだり、なかなか激しいちょっかいの掛け方だ。サッカーでは審判の見ていないところで、プレッシャーを掛け合うことはよくあることだし、コスタやガブリエルの母国ブラジルではそれをマリーシア(ずる賢さ)と呼び、(奨励とはいわないまでも)サッカーの一部として認められている。

しかし、後半43分にコスタがコシールニーを突き飛ばしたシーンは決定的だった。ディフェンダーはもんどりうって倒れたのだ。

起き上がったコシールニーは自身の胸とコスタの胸を突き合わせ臨戦態勢に入ったことを告げる。と、そこへ仲裁に入ったのがガブリエルだった。ポルトガル語が通じるガブリエルはコスタをなだめようとしたのだ。だが、獰猛(どうもう)なFWコスタは、急遽(きゅうきょ)標的を変更する。審判の目を欺きながらガブリエルの首をいきなりひっかき、普段は温和なブラジル人ディフェンダーの怒りを誘ったのだ。結局、挑発にのって足を出したガブリエルはレッドカードを受け、退場。状況を制御できない審判は、コスタにイエローカードを提示しただけだった。相手を数的不利に追い込んだコスタは、自身の仕事をやり遂げたとでもいわんばかりの表情。一方、11人でやるべきスポーツを10人でプレイするアーセナルに勝機はなかった(その後もう1人退場し最後は9人に。まさに踏んだり蹴ったりである)。

2失点したアーセナルはなすすべなく敗れたが、観戦者にとっては何ともモヤモヤした試合だった。何よりも残念だったのが、前半のハイテンションとはうってかわり、後半はスポーツとしての魅力が乏しく凡庸なゲームになってしまったのだ。コスタは勝利をたぐり寄せる彼なりの方法を用いたが、それはアンチ・フットボーラーのメソッドだった。そして、サッカー選手が正々堂々相手と対峙(たいじ)することを否定したことがいかに愚かであるのかを、そのあと偶然視たテレビ中継で知ったのだ。

僕の目の前でたまたま始まったTV放送が、ラグビー日本代表のW杯初戦、南アフリカ戦だった。正直、そこまでラグビーについては詳しくないし、雑誌や報道をみて元・世界チャンピオンの南アに勝つことは難しそうだということを伝え聞いていたくらいだ。ところが、同じイギリスのブライトンで16時40分に開始した試合は、悶々(もんもん)とした心持ちを消し去る爽やかさで僕の胸に迫ってきた。

スポーツライターの藤島大は、『人類のためだ。』(1)というエッセー集で、ラグビーについてこう記している。「停滞する密集におそろしいほどの労力を費やし、これ以上は動かないと思われるスクラムを延々と押す」。

確かにそうだ。サッカーほどのスピード感はなく、眼前の相手を目いっぱい押せども、押せどもトライまでの道のりは遠い。ルールも複雑で何だか難しい。しかし、「前にボールを投げない」という最大の鉄則を基にした陣取り合戦としてこのスポーツを捉えると、ずいぶんシンプルですがすがしいスポーツだと思えてきた。選手はみな懸命で、誰一人さぼる者もいない。南アフリカ戦の日本代表が見せたあの鬼気迫る集中力よ。後半終了間際、フランカー真壁が血のにじむマウスピースを噛み直す表情は、まさに鬼のそれだった。相手より一歩でも前へ。そのささやかにして唯一の願いを、チーム全員が共有している健やかな一体感は、僕の心を揺さぶった。

激しくも美しい「フェア」

ラグビーは、悪意を持ってプレイしようと思えば本当に相手を痛めつけることができるスポーツだ。だが、ルール上では相手の頭めがけて突っ込むことはできても、彼らは思わず力を緩めるのだという。「合法(ジャスト)」よりも「きれい(フェア)」を本物のラガーメンは優先するからだ。

日本ラグビーの父といわれる大西鐵之祐(おおにし・てつのすけ)が「闘争の倫理」と呼ぶその心は、戦争体験を通じて、彼が到達した境地だ。ルールでは可能な中、闘争のスポーツにどう倫理を滑り込ませるのか? 戦争中の人殺しを、ルール下にあるからと受け入れざるを得なかった彼は、忸怩(じくじ)たる思いをラグビーにささげたのだ。厳しく闘争的な日本代表のパント攻撃にも、(合法であろうと)相手の頭は傷つけまいという「情緒のコントロール」が働いている。だからこそ、その日の彼らは激しくも美しかったのだ。

大西鐵之祐は、『闘争の倫理』(2)で「ラグビーをする心」についても書いている。そこで彼はフェアプレイについて語るのだが、「勝ちたいためにきたないプレイをする人がいる。しかし決して楽しいゲームはできない」といい、そこには「闘争の倫理」が欠如していると看破した。

サッカーとラグビー、元は同じスポーツだったのだが、品位においてはずいぶん遠い場所にまで離れてしまった。残念ながら資本規模だけ増大する現代のサッカーに高潔さはない。果たして、ジエゴ・コスタはラグビー日本代表の試合を見たのだろうか? 心からサッカーを楽しめているのだろうか?

幅 允孝

※その後、FAの調査によりジエゴ・コスタはコシールニーへの暴力行為により3試合の出場停止が言い渡され、ガブリエルへのレッドカードは取り消しとなった。

『SANKEI EXPRESS』2015.9.27 に寄稿
http://www.sankeibiz.jp/express/news/150927/exg1509271400004-n1.htm