フットボール批評 第2回 継続するということ。アーセン・ヴェンゲルと村上春樹

村上春樹は『職業としての小説家』で、かなり赤裸々に自身の小説作法について書いている。2015年9月に発売したその本は、紀伊国屋書店にて(ほぼ)限定発売した流通方法が話題を呼んだが、ほんとうに重要なのはその中身だ。
 『走ることについて語るときに僕の語ること』など、幾多のエッセイで村上は「どうして書くのか? 書き続けるのか?」という小説家的命題に対する回答を少しずつ露わにしてきた。けれど、今回の『職業としての小説家』は、もっともっと脱いでいる。ほとんど自伝と言っても差し支えないだろう。
 1978年4月、ヤクルトスワローズの開幕戦を芝生外野席で観戦していた村上は、先頭バッターのデイブ・ヒルトンがレフト方向に放った美しい二塁打を見て小説家になることを直感したのだという。この本の中で彼はその感覚を「エピファニー(epiphany)=本質の突然の顕現、直感的な真実肥握」と書いているけれど、誰にとっても、突然目の前に現れた「何か」によって人生が一変してしまうことはあるのかもしれない。
 アーセナルFCにとっての「その日」は、1989年の1月2日だった。当時、モナコの監督を務めていたアーセン・ヴェンゲルはフランスの試合の合間にハイバリーでノースロンドンダービーを観戦し(2−0でアーセナルが勝利)、カクテルラウンジで副会長デイヴィッド・ディーンと出会う。そして、ディーンは長いトレンチコートを着込み安物の眼鏡をかけていたヴェンゲルを友人宅で行われるディナーに誘ったのだ。その晩のパーティーでヴェンゲルの人柄とインテリジェンスに感銘を受けたディーンは「アーセンをアーセナルへ」と直感し、7年後にそれを実現させた。そして、泥臭く退屈なチームの代名詞だったアーセナルは、ヴェンゲルの就任によってそのスタイルを一変させたのだ。
 『アーセン・ヴェンゲル アーセナルの真実』は、ミラー紙記者のジョン・クロスが、アーセナルで20年続いたヴェンゲルの航海を丹念に追った渾身のノンフィクションだ。当時の選手やクラブスタッフなどへのインタビューを中心に、多面的なアプローチからヴェンゲルの仕事を描いた労作である。
 美しいプレースタイルを根付かせたヴェンゲルの黎明記はまさに革命だった。ハイライトは1998年の5月3日のエバートン戦、11ポイント差つけられていたユナイテッドを逆転し、優勝を決めた試合だ。89分にスティーブ・ボールドのパスがトニー・アダムスへと渡り、勝利を決定づけるゴールが決まった。この二人のDFは、かつてゴール前の「砦」と呼ばれ、屈強ではあるものの不器用な選手だった。その二人が前線まで駆け上がり見事な連動で相手ゴールをこじ開けたのだ。誰にでも美しいフットボールをすることができるとヴェンゲルは証明し、スカイスポーツの解説者マーティン・タイラーは「解放の瞬間だ」と語った。そのゴールこそヴェンゲルがアーセナルと英国にもたらしたものの象徴だといわれている。
 その後、アーセナルは歴史的な無敗優勝の栄光をつかむものの、新スタジアム建設によるコスト増大やライバルたちの経済的ドーピングによって長い低迷期を迎える。しかしながら、ヴェンゲルは決してその歩みを止めなかった。ゲアルディオラやモウリーニョなど現代の名将と呼ばれる監督が長くて4年のタームでしかチームを率いることができないのに比べ、ヴェンゲルの継続性からは、彼独自の特殊な時間の流れを感じることができる。
 村上春樹は小説というジャンルが「誰でも気が向けば簡単に参入できるプロレス・リングのようなもの」だと言う。ボールペンとノート作話能力があれば、専門教育を受けなくてもそのリングには立てる。だが、彼はこう続ける。「そこに留まり続けるのは簡単ではありません」。書き続けるための才能や気概、運や巡り合わせなども大切だが、そこには「何か特別」な「資格」のようなものが必要なのだと村上は語る。
 小説家は長く書き続けるうちに「剃刀の切れ味」を「鉈の切れ味」に転換することが求められるし、また次の段階では「斧の切れ味」に変容させるべき時期があるらしい。そんな転換ポイントを乗り越える特別な「資格」について考える時、ヴェンゲルの20年を参照してみると「人よりも長いインターバルで刻む時間の捉え方」がその答えではないかと思えてくる。
 どれだけ批判を受けようと、周囲の景色が変わろうと、自身の信念を忍耐強くゆっくりと実現していくヴェンゲルの歩み。今年はいよいよ契約最終年だが、きっと彼はもっと先のアーセナルのことを考えているに違いない。願わくは、そんな彼の最後が奇跡と狂喜に彩られますように。

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『アーセン・ヴェンゲル アーセナルの真実』(ジョン・クロス著、岩崎晋也訳/東洋館出版社、1,944円)

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『職業としての小説家』(村上春樹著/スイッチパブリッシング、1,944円)

フットボール批評 issue14 Dec 2016に寄稿