フットボール批評「ボールは跳ねるよ、どこまでも。」 第3回 宴会と心の居場所

先日、ある新年会に出掛けた。会場は池袋の老舗大衆居酒屋バッカス。そこは、日本に住むアーセナルファンから聖地と呼ばれている酒場である。なぜ、聖地なのか? それは謎であるが、ポテサラをつつきながらスポーツ観戦できるその居酒屋の店長が熱狂的グーナーだったという以外に、理由などいらないはずだ。
 その夜、日本全国各地から熱きグーナーたちがバッカスに集結した。「グナ新年会」と題された宴は毎年この時期の恒例行事で5回目を数えるのだが、近年はますます盛り上がりを見せている。定員オーバーの狭い店内は酸欠気味で、得体の知れないエネルギーがふつふつと会場からは湧き出ている。
 と、大袈裟に書いてみたが実際のところ、こんなに楽しすぎる呑み会はない。今季プレミアシップ前半の中で、アーセナルファンが最もカタルシスを感じたホームでのチェルシー戦VTRを延々とモニターに流し、技巧を凝らしたエジルの3点目が決まれば彼のチャントを唄い、ファブレガスのミスに歓喜し、後はひたすら呑み、アーセナルの行く末について誰やかれやと楽観的に語る、以上!というのが宴会の内容である。
 アーセナルは近年どころか、かなり長い間PLのタイトルから遠ざかっている。しかし、会場には不思議と若いファンも多く、普段の仕事や人間関係からは離れたアーセナルファンのみが入浴を許される銭湯みたいな雰囲気がたまらない。誰もがフェアで気のおけない空気は、ただ一つ「アーセナルが好きすぎる」という一点でつながっている。だが、ノースロンドンから遠く離れた池袋の地下で、地縁のない場所のフットボールチームを必死で応援するのは21世紀のサッカー事情を明確に照らすことだと思う。
 かつては生まれた場所のチームをオートマティックに応援するのがサポーターの流儀だった。しかし、現在は世界中のどこにいてもスマートフォンを通じて好きなチームの試合がライブ観戦できる。自分の「心の居場所」を自身で決めることができる。そんな現代サポーターの姿勢を「本物でない」と地元オールドファンに断罪されても、僕らは少し困ってしまう。僕のような円周外部のファンがいるからエジルの移籍金が拠出できたわけだし、そもそも「心の居場所」を定める自由は昔から皆が持っていたとも思うのだ。
 そこで、思い出すのが星野道夫という写真家である。1952年に千葉で生まれた彼は10代の頃からアラスカに恋い焦がれ、大学時代にシシュマレフというエスキモーの村の村長に手紙を出し、何度も滞在を繰り返したのち、最後はフェアバンクスの定住者となった。カリブー(北米を季節移動するトナカイ)やグリズリー(ハイイログマ)、クジラやオーロラなど、星野が写す自然の姿は圧倒的。それでいて、被写体と鑑賞者を温かく包む視点も持ち合わせているから、没後20年以上経った現在でも多くの人に愛されている。
 星野がアラスカに向けた初期衝動は、誰にも見られていない風景を見たいというシンプルなものだった。だが、渡航を重ねて多くの人と関わり、話し、一緒に狩りをし、飯を喰らう内に星野の中で確かなアラスカとの結び目がつくられていった。生まれた場所に縛られず、自分の「心の居場所」を自分で探し出した先人である。
 これからも、フットボールというコンテンツが全世界的に拡大し続けることが予測できる中で、個々の「マイチーム」がどんな風に出来あがっていくのかを考えることは興味深い。ただ、その「マイチーム」について直接誰かと話し、ご飯を食べ、酒を酌み交わす愉しさは、ロンドンでも池袋でもずっと変わらず続くことだろう。

フットボール批評 issue15 Mar 2016に寄稿